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「無二的人間」 山本空外著 [無二的人間]

昨日で「空外先生外伝」は終了しました。
空外上人を知り著書を読みはじめ、その足跡を尋ねて歩いたのは数年前ですが、その当時に読んだ著書を読み返してみると、その当時にはわからなかったところがおぼろげながらですがわかってきました。わかったといっても、それが本当にわかっているのかははなはだ疑問ではあるのですが、それでも当時は何となく読みすすめていたところの意味の深さに気づいたりして、何度も読み返すことの大切さを感じています。

空外先生は「無二的人間」ということを提唱されていました。
まだまだこの意味を正確には説明はできないのですが、空外先生の書かれた著書の内容を紹介するという形で、「無二的人間」とはどういうことなのかを知ってもらえればと思います。

無二的人間  山本空外著    
               昭和59年8月10日初版発行


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「無二的人間」 山本空外著2 [無二的人間]


序記
『無二的人間』という題で上木する本書には、また格別の思出と期待があって、じつに感無量である。長年のわたくし自身の思想と生活がこの論点に集中し続けたことでもあるし、なお無二的人間としてではなければ、文化も平和も名ばかりに終わるしかないと考えているからである。
まにあわせで、一方的で、その時がすぎると、みなそれだけの終る夢のような大小事件の走馬灯に似た一角に帰する人生のみとしたら、たとい大半がそうであっても、それでは生きるねうちに乏しいというのが、すでにわたくしの青年時代からの人生観の根本であった。

「世間虚仮」といわれるように、世間一般が迷妄であるにしても、いろは歌でさえ「有為(うゐ)の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」と、すでに小学校時代教示されたところを、一人ひとりなりに生活できないはずがあろうか。


「無二的人間」 山本空外著3 [無二的人間]

「有為」とは迷妄で、「無為」の悟真と相反する。「世間虚仮、唯物是真」(上宮聖徳法王帝説)といわれるとおりである。迷・悟の相反のままで、虚仮の人生を終るか、それとも真実の人生に徹せんとして、「有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」の生活を今日から遂行せんとするかである。
無二的人間とは後者のほうである。前者をとるひともあるようであるが、わたくしは後者に立つ。
ABCのアルファベットのことを思えば、それにあたるわがいろは歌は、たといそれが『大般涅槃経』
巻第十三聖行品之下の四句偈訳にしても、まさに言語学史上にも類を見ないほどのものといえる。すなわちそれのみでも、人生の本義に取りくめるからである。この本義にそうて、家庭・学校・社会等々の教育をみのらせていけば、何人も各自なりに、生きがいを全うしうるように思われる。



「無二的人間」 山本空外著4 [無二的人間]

無二的の「二」とは「能取・所取」と古来いわれるもので、いずれも本書中に説かれるので、ここでは立ち入らないが、主・客のことであり、自分と相手とも換言できる。
書物を読んでも、読みひとの程度にしかわからないし、同じ筆で書いても、書くひとの心が形をとるまでである。弘法筆を選ばずと伝えられるのは、書は人なりといわれるのと相通ずる。相手が書物のときでも、また筆であっても、自分の心の深さに応じて、どのようにも生かしうる。ひとを相手にしても同様である。出会った師をとおして、大成した名僧もある。そのことを「能取・所取を離る」と仏典は説く。それが「無二智」であり、その般若波羅蜜多を如来とも説いている。
いろは歌でいえば、「有為の奥山今日越え」たところであろう。したがって世界無類のこのいろは歌を、ただ教示されて記憶しているだけではなしに、「能取・所取を離れ」て、所取にあたる相手を能取の自分なりに生かしていくのである。つまりそこを無二というのであり、自・他の対立、闘争に終らないのである、それで無二的人間として生きなければ、何人も人生のみのりを全うし難いことになる。


「無二的人間」 山本空外著5 [無二的人間]

説明すると、少し難解と思われるかもしれないが、じつは人生の本義はそれしかないであろう。したがって説くだけでなしに、自身行ずるのほかにないので、そこを『般若波羅蜜多心経』でも「行を行ずる」(梵本)といっているし、念仏でも「行を行ずるもの、是れを正行と名づく」(唐善導『観経疏』散善義)という。
宗教も倫理もこれが重要であろう。釈尊にしても、自身でさとられて、その生活の光が周囲を照らしたにほかならない。われわれは各自なりにそれができないことはなかろう。
ただそう述べただけでは、はっきりしないので、人間が動物一般と類似のところは多くても、すでに平安時代後期以来、いろは歌四十七字に「ん」を加えて四十八字を習字手本とし来ったような伝統こそは、まさに人間が動物生活の延長線上において右往左往するのみの過去を清算して、人間が人間になる、したがって自己が自己になる「行を行ずる」原点として生かされうる。それでわたくしは無二的書道・無二的人間形成を提唱すること久しい。提唱にとどまらず、その生活に徹してきたかは、本書が裏づけている。



「無二的人間」 山本空外著6 [無二的人間]

P3より
『一枚起請文』が法然上人のご遺訓であるように、釈尊のご遺訓が、いわゆる「自燈明・法燈明」とか、「自帰依・法帰依」と称せられるものであることは、周知のとおりである。
してみればやはり他を拠りどころとせずに、自己に取りくむほかにない。自分自身がさとらなければ、どうにもならないということになる。
一向念仏というのも、その「仏」とはサンスクリットの音であり、仏という梵音の意味は、サトルということにほかならない。サトルとは、もとより自分がサトルことなので、また自分がサトラなければ、ひとのサトリもわかるはずがない。
したがってただ概念上の噂をしていることでしかないから、その噂の上手なひとの話をいくら聞いても信じても、その聞・信は経典にいわゆる聞信とは直結しない、次元を異にする。



「無二的人間」 山本空外著7 [無二的人間]

P4より続き
それで真実なるべきものが、かえって虚仮になるまでである。宗教界・実業界などなおさらである。
世間が虚仮というわけでもないので、同じ世間でも、釈尊は王位につこうとせず、一生乞食僧として終って、サトリを全うされ、その聞・信に感動して、真実を生きた諸弟子との間には、もとより真実の世間が生動したはずであり、法然上人もすでに十八歳にして隠梄し、かえって世間を真実にしていく一向念仏に徹する一生を全うされた。
迷う世間は「世間虚仮」といえても、世間で悟っていけるのでないと、釈尊・法然上人などの跡を追えないのではなかろうか。じっさい親鸞聖人・弁栄上人等、その跡を追うて、自己も悟り、世間を浄めえて、浄土の方向に前向きに開き、みのらしていられるのであられるから、こうした分野では、たしかに「唯物是信」といえるようである。


「無二的人間」 山本空外著8 [無二的人間]


まだ4ページですが、書かれている内容が深いので読み返していると眠くなってしまいそうです。
「無二的人間」の巻末に「空外先生外伝」に登場している「井上三網」画伯が空外先生に宛てた書簡が掲載されています。
空外先生外伝の中の井上三網画伯は何ともいえない人間らしさが表現されていましたが、書簡にもその人柄が垣間見れます。息抜きというのは変ですが、書簡の一部を紹介します。

井上三網画伯書簡1

先生御来訪の節独乙(ドイツ)のドレスデン手紙を御願した返事がやっと届きました。和訳の件御願致します。ペンで五年生位の字で書いてください。
 御元気の事と思います。御多幸を祈り上げます。
                      小田原市長興山
                         井上三網
   七月七日   
山本空外先生

「無二的人間」 山本空外著9 [無二的人間]

井上三網画伯書簡2

 私は幸運でした。日頃先生の空の哲学の御教えに依って訓育された学徒の一人として、そこはかとない東洋人のプライドを獲得し、行深によって思想を統一することが出来、こうして同封している様な手紙の交換をすることが出来ることを幸運と思います。私には何か昔より、天の翼が十年に一回位ずつ丁度よい時私がヒモジイ思いをしている時に与えてくれます。先生が御出下さった事も其の一つです。だから独乙の求道者と日本を結びつけて下さった。この現象も有縁の仏果と思えます。同封のジークフリード ヘンデル氏に書いた返事を御面倒のことと思いますが、独訳して投函して下さい。
郵便料金も同封しておきます。彼に筆者はハイデッカーと親交の有る人だと云ったら尚更仰天するでしょう。そして自分の幸運を嘆きに似た喜びに埋没するでしょう。
 こういう現象は稀有のことです。この文通を私は第二画集に収録するつもりです。よろしく御取り計らい下さい。
   七月十六日                井上三網
 山本空外先生



井上三網画伯書簡3
 私は日本文でたやすくこんな事御願していますが、先生が独文で書かれた様を見ていますと、大変な事の様に思えます。こんな長い文章を独文で書く事は、先生の全く本格的に書かれるので、処が先方は全く驚きの様です。そして私は全く安心しています。少々長い日月がかかってもかまいませんからよろしく御願します。
 先方のアドレスも書いておきます。
                  小田原市長興山 井上三網


「無二的人間」 山本空外著10 [無二的人間]

P6より
「他を依りどころとせずに」、自己がさとるのが仏教とすれば、しかも神を信ずるキリスト教でも、「天国は汝らのうちにある」(「新約聖書」ルカ伝十七章二十一)といわれるとき、この内心をはなれて宗教に取りくめるはずもない。
いな、何を見ても、誰に会っても、自己の心の程度にしかわかるものではない。
心といえば、観念的のように思う人もあるかもしれないが、それがそのままそのひとの心の程度のこと・・・(以下略)



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