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「無二的人間」 山本空外著190 [無二的人間]


昨日で山本空外先生の「無二的人間」は終了しました。
空外先生の「無二的人間」を理解するべく書き連ねてきたのですが、書き続けてきた部分が大切な部分だったのかどうか、漏らした部分に大切なことが書かれていたんじゃないか、もっと詳しく理解するには何度も読み込んでいかないといけないとも思っています。
空外先生は生涯でそれほどたくさんの本を書かれていなかったようです。
手元にある本でまだ紹介していないのは「人間と自然」という著書なのですが、この著書は空外先生の最期の著書なので、まだ紹介するほど理解できていません。もう少し理解が深まったら、いつか紹介したいと思っています。
ここまで読まれた方も、ぜひ空外先生の著書を手にとってみてください。
「無二的人間」の意味がより深まるんじゃないかと思います

著書はこちらで購入できます。
http://www.kugai-kinenkan.com/contents10/contents10.html


「無二的人間」 山本空外著189 [無二的人間]

P367よりつづき
これからの教育というのは、これまでの、教育といえないような内容にとどまっていたものを掘り起こして、自分で自分になっていく生き方をして、学生にたいしても社会にたいしても、世界の人にも、働きかけ、その結果、自分が自分になっていく主体的な教育が世界中で取りくまれたなら、ひとは今までの何十倍も何百倍も生き生きと生き抜き、人生を全うすることができる。これは世界文化創造の上で大きな変化です。

・・・途中省略・・・

こうしてみると、二十一世紀にかけての教育の本義は、どこまで価値が高いかわからないほど、価値をもっているのです。
そして今こそ、明治百年を反省して、前向きの教育を、みんなが幸せになる道を生きるべきでないかと思います。
それが「無二的教育」です。
教育の本義というのは、「無二的教育」しかありません。
自分勝手をしては駄目です。



「無二的人間」 山本空外著188 [無二的人間]

P367よりつづき
これから二十一世紀に入れば、いままで戦争をくりかえして、いわば強いものがちの動物的生活のあいまに文化的創造を果たした程度におわっていたのをあらためねばならない、と私は考えます。
これからは、ほんとうに、さすがに人間だと思われるような人間を自ら育成していく。それで、自分が自分になる教育なのです。
これこそ、最高の教育であり、生活であり、生命のみのりであることに気づいていくことが大事です。





「無二的人間」 山本空外著187 [無二的人間]

P367よりつづき
東洋というのは自然を手本にします。自然界には、同じものは一つもない。一つ一つが比べられない値打ちをもっているのです。
野菊一輪にしても、悟って見れば、涙の出るほどです。生命そのままが、ずばり野菊の花として咲いているのです。
これは自然に咲く花ですから、ただでもあるので、値打ちがないと思うひともあるが、一万円出したバラの花よりも自然の野菊の花の方がよほどましなのに決まっている。人手細工が加わるほどよくないので、見た目は派手ですが、本当は値打ちがないのです。自然ほど値打ちがある。それで、書のことも絵のことも話したのです。




「無二的人間」 山本空外著186 [無二的人間]

P366よりつづき
釈尊のご入滅の際、阿難という弟子が、二十余年も釈尊の説教を聞いて、多聞第一というのに、未だ悟っていない、だから、これからどうしましょうか、と聞いたら、「自分自身が悟らなければならない」と答えられたという。これを「自燈明」と申します。これが東洋の思想なのです。
ところが、お坊さまは沢山おられるが、なかなか自分が悟ったという方に出会いません。ともかく自分が悟らないと駄目です。自分が悟れず、たとい出世して御殿のような家にすんでいても駄目です。
中身の尊さは、各々なりにさとれた心の宝のみです。
人間が人間になる。そのことは結局自分が自分になることです。
たといみかけがよくても、けっきょくごまかしか、まにあわせでしょう。男子は男子なりに、女子は女子として、また老人は青年ほど仕事ができないにしても、経験を生かして皆さんにお伝えすることもできます。



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