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「無二的人間」 山本空外著11 [無二的人間]

P16より
化生(けしょう)といえば、何のことかと思うひともあるかもしれないが、それは科学的唯物的に偏して、母胎内の生育、いわゆる胎生(たいしょう)しか考えないからであって、かような獣類的生命次元を超えて、精神文化のいのちに迫るのが化生なのである。
わたくしはすでに数十年来、心のさとりを深めて、化生の生活から離れたことことなく、日々化生の仕事をせずに生きられないほどである。化生の生活、化生の仕事をせずに、宗教的・芸術的とはいえないからである。
もとより現代では経済・政治界はもとより、宗教・芸術・教育界まで、利害打算で働き、動かされていることを思うと、いわんや社会の半ば共産主義・唯物論でもとおせる世界であるとすれば、心やいのちの本義に根ざす化生の生活や仕事は、一生関与せずに終るひとも、むしろ多いのかもしれない。



「無二的人間」 山本空外著12 [無二的人間]

P17よりつづき
せっかく人間に生まれても、道具や機械に左右され、追いまわされて結局動物的一生を終ったのでは、まことにおしいことである。でも今日の三面記事をにぎわしている紙上の報道は、まさに人間とはいえないようなことを満載しているし、それも僅か一端でしかなかろう。掘り出していけば、際限ないのではなかろうか。
哲学的にそれを「際限ないもの」(「アペイロン」)とプラトーンも称して、それにたいして「ペラス」(限界)を重視するが(対話編『フレーボス』)、これはどこまでも「イデア」(観念)でしかない。いわば「アペイロン」の人生にたいして燈台のようなものであろうか。



「無二的人間」 山本空外著13 [無二的人間]

P17よりつづき
「イデア」に相応する「本願」を説いた『無量寿経』でも、巻下では「往き易くして人無し」と断じているから、やはり昔も今も、大半は人面獣心の程度なのであろう。
本願とは人間が人間になる願いのことで、人生の灯台にもあたるが、人間に生まれてきたのであるから、人間になるのが当然であり、自然である。
したがってこの「易往而無人」の直後に、「自然のひくところ」(自然之所牽)ととくに念をおしている。
自然に生きさえすればよいのにあえて不自然になり、自分勝手をして四苦八苦する。
「往き易い」のに、しかも往く人が無いという。
その点、昔も今も同様ではなかろうか。家庭内から国際間までみな争う。



「無二的人間」 山本空外著14 [無二的人間]

P18よりつづき
「往く」とは往生のことで、往生とは極楽往生のことなのである。
それで「往き易くして人無し」断じた直後、「自然のひくところ」と述べて、「寿(いのち)の楽しみ極まりあることなかるべし」(寿楽無有極)と結ぶのであるから、極楽往生のことにほかならない。
またこの自然の寿(いのち)の楽しみ極まる以上の楽しみが、この世にあろうはずがない。
そこを道理のうえからまとめれば、『般若心経』のようになるので、これにしても最後の呪結は、「掲帝(ぎゃて)」(bate)としかいえない。それでこれを四度も繰りかえして力説するまでである。
Gateという梵語は、gom(行く、往く)という動詞にもとづくので、前掲の「往き易くして人無し」という、その「往く」に通じる。



「無二的人間」 山本空外著15 [無二的人間]

P19よりつづき
わたくしが『般若心経』を和訳して、その最後の呪結のところを、

「往き 往き 彼岸に往き 彼岸に往きついた覚よ 至言」(「心と芸術と宗教」P242)

と訳したゆえんである。釈尊のさとりといってもこの「往く」しかない。
つまり、争っておたがい損の分けどりに終るようなことをせずに、
自分のいのちのみのりを全うするように生きることである。



「無二的人間」 山本空外著16 [無二的人間]

P19よりつづき
ともかく利害打算で自分勝手に不自然な争をするかぎり、人面獣心で、ひっきょうするに人間のねうちはない。
そこをやはり『無量寿経』も前掲に続けて、いわゆる「三毒段」を説き、

「しかるに世の人、薄俗にして、ともに不急の事を諍う(あらそう)。(中略)
尊となく卑となく、貧となく富となく、少・長・男・女、ともの銭財を憂う。
あるものも無きものも同じく然り。(中略)
田有れば田を憂い、(中略)田無ければ、また憂いて田あらんことを欲す。(中略)
たまたま一有ればまた一を少き(かき)、是れ有れば是れを少く(かく)。云々」と述べる。




「無二的人間」 山本空外著17 [無二的人間]

P19よりつづき
まことにこれを繰りかえし味読するほど、外形上は文化が進展しても、
人間一人ひとりとしては、この一文にもあるとおりが、今も同様である。
「ともに不急の事を諍い(あらそい)」、全く「ともに銭財を憂うること、有・無同然」
なので、マルクス主義の出現以前からこうして経済的動物的の程度であり、したがって、マルクス主義が流行している現代では、組合などを作って争うことが形式化するものの、いくら争っても、
「たまたま有一復少一・有是少是(一有ればまたいちをかき・これあればこれをかく)」
に終るだけで、何にもならない。
それで、「ともに不急の事を諍う(あらそう)」といわれるのである。



「無二的人間」 山本空外著18 [無二的人間]

P20よりつづき
そのゆえに化生(けしょう)の問題があり、一人ひとりの心で解決できるものに取りくむことが優先する。
者を優先せしめるとき、みな、たとい一時の満足をえても、後のマイナスのほうが多い、今わかり易いために一例をとれば、宝くじがあたった一事を考えれば喜べるが、そのために実弟が殺害されることがつながりもする。
またその殺害の一事だけですめば、殺害者は満足かもしれないが、その後のマイナスは想像を絶するものがつながる。
そのことが「たまたま一あればまた一をかき、これあればこれをかく」と簡言されるわけで、わたくしはこの要句を揮毫することも久しい。


「無二的人間」 山本空外著19 [無二的人間]

P21よりつづき
人生はこれが重なりあい、つながりあったなかに生きていくほかないので、祖先、祖国その他、一人ひとりの言動にいたるまでもみなその一角を形成する重層立体的な網目のような一点を生きている。
しかもノーベル賞のごときも、それだけを考えれば、栄誉に相違なく、あたかも戦時中の金鵄勲章のようなものである。しかし自分だけのこととせず、その影響などの及ぶことを広く考えれば、戦争のないにこしたことはないし、また自然に生きられる幸せに比すれば、不自然な科学的公害をいく重にも増すごとき、最少限度にとどめなければならない。
すでにネパールでさえ、登山観光者などによる被害として、緑の半減が憂えられている。しかも緑の回復でも、寒冷地は容易ではなく、一律に考え易い科学的見方は、とくに気をつけなければならない。

「無二的人間」 山本空外著20 [無二的人間]

P22よりつづき
わがくに文献の最古のものに属する聖徳太子の『十七条憲法』にも、

「篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり。すなわち四生(ししょう)(このひとつが化生)の終帰、万国の極宗なり。いずれの世、いずれの人、この法を貴ばざる。人はなはだ悪しきもの鮮し(すくなし)。よく教うるときは、これに従う。それ三宝に帰せずんば、何を以って枉れる(まがれる)を直さん(たださん)。」(第二条)

とあり、「枉れるを直す(まがれるをただす)」ことなしには、人生も社会もおしまいである。
自然界はそうではない。地球の数十億年の自転さえ、直枉(ちょくおう)の要ないのみでなく、かえってついに生物進化のごとき、釈尊・善導・法然等々の諸聖を円成し、その類を挙げればじつに多い。
みな「篤敬三宝」によるからである。したがってこれこそ「四生の終帰・万物の極宗」というべきであろう。


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