「無二的人間」 山本空外著4 [無二的人間]
無二的の「二」とは「能取・所取」と古来いわれるもので、いずれも本書中に説かれるので、ここでは立ち入らないが、主・客のことであり、自分と相手とも換言できる。
書物を読んでも、読みひとの程度にしかわからないし、同じ筆で書いても、書くひとの心が形をとるまでである。弘法筆を選ばずと伝えられるのは、書は人なりといわれるのと相通ずる。相手が書物のときでも、また筆であっても、自分の心の深さに応じて、どのようにも生かしうる。ひとを相手にしても同様である。出会った師をとおして、大成した名僧もある。そのことを「能取・所取を離る」と仏典は説く。それが「無二智」であり、その般若波羅蜜多を如来とも説いている。
いろは歌でいえば、「有為の奥山今日越え」たところであろう。したがって世界無類のこのいろは歌を、ただ教示されて記憶しているだけではなしに、「能取・所取を離れ」て、所取にあたる相手を能取の自分なりに生かしていくのである。つまりそこを無二というのであり、自・他の対立、闘争に終らないのである、それで無二的人間として生きなければ、何人も人生のみのりを全うし難いことになる。
書物を読んでも、読みひとの程度にしかわからないし、同じ筆で書いても、書くひとの心が形をとるまでである。弘法筆を選ばずと伝えられるのは、書は人なりといわれるのと相通ずる。相手が書物のときでも、また筆であっても、自分の心の深さに応じて、どのようにも生かしうる。ひとを相手にしても同様である。出会った師をとおして、大成した名僧もある。そのことを「能取・所取を離る」と仏典は説く。それが「無二智」であり、その般若波羅蜜多を如来とも説いている。
いろは歌でいえば、「有為の奥山今日越え」たところであろう。したがって世界無類のこのいろは歌を、ただ教示されて記憶しているだけではなしに、「能取・所取を離れ」て、所取にあたる相手を能取の自分なりに生かしていくのである。つまりそこを無二というのであり、自・他の対立、闘争に終らないのである、それで無二的人間として生きなければ、何人も人生のみのりを全うし難いことになる。
2012-06-13 07:07
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