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「無二的人間」 山本空外著6 [無二的人間]

P3より
『一枚起請文』が法然上人のご遺訓であるように、釈尊のご遺訓が、いわゆる「自燈明・法燈明」とか、「自帰依・法帰依」と称せられるものであることは、周知のとおりである。
してみればやはり他を拠りどころとせずに、自己に取りくむほかにない。自分自身がさとらなければ、どうにもならないということになる。
一向念仏というのも、その「仏」とはサンスクリットの音であり、仏という梵音の意味は、サトルということにほかならない。サトルとは、もとより自分がサトルことなので、また自分がサトラなければ、ひとのサトリもわかるはずがない。
したがってただ概念上の噂をしていることでしかないから、その噂の上手なひとの話をいくら聞いても信じても、その聞・信は経典にいわゆる聞信とは直結しない、次元を異にする。



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