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「無二的人間」 山本空外著180 [無二的人間]

P361より
無二的人間の形成・・・・(一人一人を生かすこと)

昭和三十年十月十五日、東北大学で、全国の倫理学会の総会があったときに、私が公開記念講演をしましたが、そのときの題目は「無二的人間の形成」です。
その副題は「平和を約束するもの」としておきました。
原爆で私はとなりにいる人が死んだのですから、私も死んだようなものとして、第二の人生を僧として生きることにしました。
原爆が落ちれば、一律的の方面は無論あるけれども、そうでない方面も、いくらでもあるので、法則的な考え方の西洋では、たとえばプラトンの最後の本は『ノモイ』(法則・法律)であり、ヘーゲルのは『レヒト』(法)です。これは唯物的にも考えられるが、ともかく観念的です。



「無二的人間」 山本空外著179 [無二的人間]

P360より
私たちの体は毎日大自然のいのちの根源に守られ支えられて生かされているのです。そういう自分の生命の根源の深まりにせまっていくことが彼岸に往くことです。彼岸に至るのは一人一人で別々です。だから、国民の一人一人が悟りの生命の根源にせまることを、奈良の大仏は求めているのです。これを造るとき多くの国民がかりたてられたとしても、そのおかげで、人間が人間になれる道がひらかれたと考えられるのです。このおかげで弘法大師という人が出た理由にもなるのです。
そういうことを教えないで、日本史の教師が勤まりますかね。何も知らないで、教えているようなものです。哲学の先生が哲学をしないようなものです、この大仏は、人間が人間になる、自己が自己になる上で参考になっているのです。手本を示しているのです。それが教育というものです。われわれが本気になって取り組めば、無尽蔵に生命の根源というものはわれわれの行手をてらしていくのです。真実、教育というのはそういうことに根ざすしかありません。



「無二的人間」 山本空外著178 [無二的人間]

P359よりつづき
「仏」は「覚り(さとり)」と訳している。「覚り」といっても、自分の力では何一つできるものはありません。
寝ても醒めても心臓は鼓動しています。だが、それは自分の力でなく、大自然のおかげです。それを「空」というのです。「空」というのは「おかげ」ということです。その「おかげ」がわかり出すと、それを「般若波羅蜜」というのです。
「般若」は「覚の知恵」のことです。悟りの知恵で、彼の岸に往ったということです。それで般若波羅蜜多心経の終わりにある、「ガテー」という呪は英訳すれば、「ゴーン」(gone)と訳すのです。お経のインド言語はギリシャ語などヨーロッパ語と同類のアーリア語です。「ガテー」というのは「往った」という意味です。
どこに往ったのかというと、彼岸に往ったということです。



「無二的人間」 山本空外著177 [無二的人間]

P358よりつづき
その大仏の台座の蓮瓣(れんべん)は千葉あるべきを百葉となし、また略して五十六葉、したがって千体の大釈迦仏を描き出しているので、葉上の大釈迦という。一葉にはすべて三千大世界、すなわち百億の世界、換言すればありとあらゆる世界が現わし出され、その一つ一つに中に線画によって百億の小釈迦仏が現わされる。これを千百億の小釈迦と申します。葉上の千釈迦は諸国の国分寺の釈迦像にあたり、その下に千百奥の小釈迦たる国民があるわけなのです。
これが肝要なので、国民一人一人を成仏させるゆえんの盧舎那大仏であり、わが国全体が、蓮華蔵世界たる浄土であることを表す。



「無二的人間」 山本空外著176 [無二的人間]

P357より
此岸から彼岸へ・・・・(あるべき人間像)
仏教の「仏」は「悟れた」という意味です。彼岸に往ったということなのです。
こちらの岸は損得を計量する方面です。

・・・途中省略・・・

奈良の大仏でも、国民を酷使して、あんなものを作ったという人もいます。国民を酷使してやった方面はあるかも知れませんが、しかし、奈良の大仏を建立した意味を知っているのでしょうかね。
奈良の大仏のもとは、唐の善導大師が奈良の大仏がでくる六十年前に中国で造っているのです。善導大師は、去年が千三百年ですが、南無阿弥陀仏を専称された中国の第一人者です。
それから五百年後、法然上人が善導大師を手本として南無阿弥陀仏の仏教を八百年前にまとめられた。これはひとえに善導によるといって、南無阿弥陀仏の仏教を世界ではじめて体系化されたのです。親鸞聖人もその弟子です。



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