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「無二的人間」 山本空外著185 [無二的人間]

P365より

自燈明・・・・(これからの教育)
私が念仏するようになったのは、山崎弁栄上人のおかげで、その方は明治の釈尊ともいわれるような方で、二十才まで農業をされていたのです。戦前までは農業だけは、ごまかしができない。肥料をやらないでは米も大豆もできはしません。ごまかしたのでは駄目です。肥料も適切に施さないと作物は育たないのです。作物も一つ一つちがう、季節もちがうのですから、それを各々とか一一ともいうのです。東洋の思想はこのことを重視するのです。
法則というのは西洋のいうことです。それだけでは実際は何もならない。明治以降、西洋の真似をしてきて何をしましたかね、戦争をしただけではないですか。人間として手本にしてよいというような総理大臣がおりましたかね。




「無二的人間」 山本空外著184 [無二的人間]

P364よりつづき
先生だって学生を相手にしているのですから、教育は学生を生かしていくことです。生かすのは、一人一人で学生は皆違います。家庭、環境、遺伝、生活、趣味等々相手は皆違います。それを一律的に法則的に動かしていこうとするのが共産主義というものです。一人一人の学生を生かしきっていくのは、自分がほんものにならないとできないのです。外形上共産主義に便乗するのは共倒れです。

換言すれば、自分勝手をしない。
もっと言えば、相手を生かすことです。
二つが対立しない。
それで、教育というのは、「無二的教育」でなければなりません。書道でも無二的書道でなくてはならない。」



「無二的人間」 山本空外著183 [無二的人間]

P363よりつづき
書は筆を使います。自分と相手という、その相手がこの場合筆です。この筆なら、誰でも同じように書けるというものではないのです。この筆で出るかすれも、にじみもある。この筆を生かしきっていくことが大事なのです。筆だけではありません。紙でも、各種各様であり、かすれぐあいやにじみぐあいを異にします。それにはまた墨のあじわいも加わって、それらをみな、それぞれに生かしきっていく綜合芸術の一点一画に書道の心が生動するのです。だから自分勝手をせず、筆で書くとき、筆が相手です。その筆を生かし、また紙や板に書くのなら、紙と板とはそれぞれカスレ、ニジミなど大ちがいですから、その紙や板が最も好むように、それに限るといった筆の使い方をして、はじめて書道文化なのです。こうして墨・硯のとり合わせも決まってくるのです。墨は金銀よりも尊いのです。それで私はいつでも墨は私がするのです。すり方によって、表現は何十通りもあってみな違ってくるのです。また硯によっても違います。
それを「無二」、つまり相手を生かすということです。



「無二的人間」 山本空外著182 [無二的人間]

P362よりつづき
自分は自分でできる仕事を全うしていくよりほかにないのです。
皆さんの誰もが釈尊や法然上人と「平等」でないような人はいないのです。
ただ目先だけの計算とか、損とか得とか、善い悪いとかの議論をしてまよっているだけではおしまいで、それでわたくしは「無二的人間の形成―平和を約束するもの」という話をしたのです。

私の言う「二」とは自分と相手のことで、「無二的人間」になるということは、自分と相手という対立を超えて、自分勝手をしないということです。
この二つは、自分は相手を生かし、相手はまた自分を通して光っていったらよいのです。



「無二的人間」 山本空外著181 [無二的人間]

P362よりつづき
そこで男女同権などといって離婚が増します。私は男と女が同権ということはないと思います。「同じ」というのは数学的用語で、科学の基礎にはなるが、大自然界には同じものは一つもなく、科学と人生とは異なる。人生の根本は「平等」なので、これは仏教の重要な思想です。

女子は女子でなければ出来ない仕事をしてもらいたいと思います。紫式部も、未だに男子が書けないような『源氏物語』を残していますが、日本文学の最高の作品で、西洋人が、モダンな作品であると激賞しています。光明皇后の『楽毅論』にしても王羲之の臨書ですが、光明皇后の書は弘法大師と並ぶようなものです。光明皇后の楽毅論の右に出るような書はないのです。





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